会津若松と下野街道

mituru2004-02-27

2002年秋 福島を訪ねた時の記録を下記に示す。
塔のへつくりや大内宿など脳裏にあったが結局、裏磐梯の紅葉へと足を向ける、季節の良い頃、会津地方を再び訪ねなければと思う。
2002/10/25-10/29
福島での一歩は喜多方、本場の喜多方ラーメンを食するため昼時に入る、その後、蔵の街を散策し会津若松市に引き返す。宿は渋川問屋、蔵構えの建物に囲炉裏を囲んでのもてなしに心なごむ、翌朝、蔵の風景を楽しみつつ15分程先の鶴ケ城へ。午後、裏磐梯に入る、全山紅葉した裏磐梯の風景はすばらしく、なかでも小野川湖の紅葉には目を奪われる、三日目の宿泊は自然いっぱいの東急のグランデコ、翌朝、窓の外、昨日とはうってかわって辺りは銀世界、夜中のドサッドサッとの物音は屋根からベランダに落ちる雪の音、変化にとんだ東北の旅を堪能する。
会津若松城にて http://boss2000.fc2web.com/b-2001.htm
会津下郷町 http://www.town.shimogo.fukushima.jp/index.shtml

下野街道 概要

ふくしま教育情報データーベース  http://www.db.fks.ed.jp/txt/10070.003/index.html
会津若松から、会津藩領と南山御蔵入領を分ける大内峠(標高九二〇m)、陸奥国下野国分水嶺山王峠(標高九三五m)、更に幕府領と宇都宮藩領を分ける高原峠(標高一、二〇〇m)を越えて日光神領今市宿に結ぶ下野街道は、多くの呼び名をもった街道である。
会津藩の公式記録である『家世実紀』(一六三一〜一八〇六)では、主に「南山通り、南通り」を用い、希に「川治通り」も使われている。
十七世紀後半の『会津風土紀』では「下野路」と呼び、下って十九世紀の『新編会津風土紀』では、これを「下野街道」に統一するとしている。
下野街道の会津若松−福永−関山−大内−倉谷−楢原−田島−川島−糸沢−横川−中三依−五十里−高原新田−藤原−大原−高徳−大桑−今市に至る各宿駅は、中世以来、軍馬の通行や藩主の通行にしばしば利用され、あるいは商業上の輸送の発展とともにある程度整備がなされていたと思われるが、本格的な整備は寛永二十年(一六四三)の保科氏の入部からであると考えられる。