下野街道 概要

ふくしま教育情報データーベース  http://www.db.fks.ed.jp/txt/10070.003/index.html
会津若松から、会津藩領と南山御蔵入領を分ける大内峠(標高九二〇m)、陸奥国下野国分水嶺山王峠(標高九三五m)、更に幕府領と宇都宮藩領を分ける高原峠(標高一、二〇〇m)を越えて日光神領今市宿に結ぶ下野街道は、多くの呼び名をもった街道である。
会津藩の公式記録である『家世実紀』(一六三一〜一八〇六)では、主に「南山通り、南通り」を用い、希に「川治通り」も使われている。
十七世紀後半の『会津風土紀』では「下野路」と呼び、下って十九世紀の『新編会津風土紀』では、これを「下野街道」に統一するとしている。
下野街道の会津若松−福永−関山−大内−倉谷−楢原−田島−川島−糸沢−横川−中三依−五十里−高原新田−藤原−大原−高徳−大桑−今市に至る各宿駅は、中世以来、軍馬の通行や藩主の通行にしばしば利用され、あるいは商業上の輸送の発展とともにある程度整備がなされていたと思われるが、本格的な整備は寛永二十年(一六四三)の保科氏の入部からであると考えられる。