水郷の町 柳川

mituru2004-03-14

1997/11/01・2002/05/13
最初に訪ねたのは1997年の秋、福岡のキャナルティを視察した後、吉野ヶ里遺跡を経由して柳川を訪ねる。2度目の訪問は2002年の晩春、下関、博多で遊び柳川を経由して、湯布院、別府へと南九州を廻る鉄道の旅だ、妹夫婦との時間に追われることのないのんびり旅で五月空の下、川下りと川岸の散策を楽しむ。北原白秋記念館では、昔懐かし単行本を購入したり、料亭お花の料理に舌鼓ををうつ。
柳川 http://boss2000.fc2web.com/b-8051.htm

柳川と北原白秋

柳川観光協会(柳川の歴史)・柳川商工会議所より抜粋
元禄年間頃、蒲池氏によって城が築かれ関ヶ原の戦い以後、大名として入場した田中吉政は堀割、天守閣などを加え、天下に誇る水の城を造りました。その後、立花宗茂が十二万石の城主として再封され、柳川藩明治維新まで続きました。
近代日本の大詩人・北原白秋明治18年柳川市沖端に誕生。16歳の時に家が大火にあい、傷心の白秋は詩歌の創作に熱中。大学の時には早くも、詩壇に知られるようになります。「水郷柳川は、我詩歌の母体である」と述べ、57歳で亡くなるまで生涯柳川を愛し、数多くの優れた詩を残しました。北原白秋は、代々柳河藩御用達の海産物問屋を営む旧家に生まれました。明治34年の大火で生家の大部分が焼けてしまいましたが、昭和44年に県文化財史跡の指定を受け残った母屋を復元。
 「からたちの花」「ペチカ」「この道」など、多くの名作を世に送り出しました。沖端で生まれ育った白秋は、生涯この地をこよなく愛し、「思ひ出」「水の構図」などの詩集を開くと、柳川の風景をつづった詩が数多く残されています。